大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和44年(あ)1453号 決定

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人杉本昌純、同北村哲男の上告趣意第一点について。

所論は、憲法三一条、二一条違反をいうが、所論のごとく、凶器準備集合罪の規定が処罰の実質的根拠に乏しく、その規制が広範に過ぎ、凶器等の文言が極めてあいまい不明確な概念を内容とするものということはできず、また、本件被告人らの所為が単に集団的表現の自由にかかわる事例にすぎないということはできないから、論旨は、前提を欠き、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない(原判示長さ一メートル前後の角棒は、その本来の性質上人を殺傷するために作られたものではないが、用法によつては人の生命、身体または財産に害を加えるに足りる器物であり、かつ、二人以上の者が他人の生命、身体または財産に害を加える目的をもつてこれを準備して集合するにおいては、社会通念上人をして危険感を抱かせるに足りるものであるから、刑法二〇八条の二にいう「凶器」に該当するものと解すべきである。)。

同第二点について。

所論は、単なる法令違反、事実誤認の主張であつて、刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない(刑法二〇八条の二にいう「集合」とは、通常は、二人以上の者が他人の生命、身体または財産に対し共同して害を加える目的をもつて凶器を準備し、またはその準備のあることを知つて一定の場所に集まることをいうが、すでに一定の場所に集まつている二人以上の者がその場で凶器を準備し、またはその準備のあることを知つたうえ、他人の生命、身体または財産に対し共同して害を加える目的を有するに至つた場合も、「集合」にあたると解するのが相当である。また、凶器準備集合罪は、個人の生命、身体または財産ばかりでなく、公共的な社会生活の平穏をも保護法益とするものと解すべきであるから、右「集合」の状態が継続するかぎり、同罪は継続して成立しているものと解するのが相当である。)。

よつて、刑訴法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で主文のとおり決定する。(大隅健一郎 入江俊郎 長部謹吾 岩田誠 藤林益三)

弁護人の上告趣意

第一点 原判決は、憲法第三一条の解釈を誤つたものであつて判決に影響をおよぼすことが明らかであるから破棄されなければならない。

〈中略〉

(二) 本罪の「凶器」等の文言は極めてあいまい不明確な概念を内容とするものであつて、その点でも憲法第三一条等に違反して無効とされなければならない。

1 法理(基本的視点)

憲法三一条の趣旨とする罪刑法定主義は、犯罪構成要件の一義的明確性を要求する。それは二つの側面を有する。

第一は、刑罰法規の裁判規範としての側面である。法を適用する裁判官の恣意的主観的判断が介入する余地をなくし、その法規が適用される個々の事件によつて被告人に不公平な結果をもたらすことのないよう、犯罪構成要件が判断基準として法規の中に一義的明確に具体化されなければならない。

第二は刑罰法規の行為規範としての側面である。それは裁判規範としての機能の他すべての人に対する行為規範を含んでおり、人が将来の行為を決するに当つての指標たる機能を有する。従つて、犯罪構成要件は通常人がその法規の意味と適用可能性を理解し、何が許され何が許されないのかの明確な基準が法規自体から分るようなものでなければならない。通常人の右判断が区々に異なり、その適用可能性と意味を一義的に認識することができないような規定は、行為規範としては余りに漠然としていて合憲たり得ないというべきである。

このことは、取締当局の取締り、即ち逮捕、制止、起訴等公権力の――司法裁判にいたる間の――行使の基準の問題につらなる。憲法第二一条、第三八条等で保障ざれる自由(権利)に属する「集合」自体を構成要件要素とする本件にあつては、刑罰法規の行為規範性の反面ともいうべきこの点は、とりわけ重要である。労働争議中の集合や、政治的な集団示威運動等が、本罪に該当するとして、参加者が検挙され、起訴され或は警職法第五条によつて制止され、争議行為ないし集団行動それ自体が圧殺された場合、仮に起訴者が司法裁判所で無罪判決を受けても、その蒙つた損害の回復ないし救済は殆んど不可能というべきだからである。犯罪構成要件は、公権力行使の基準としても当該法規上に一義的明確に具体化されたものでなければならない。

2 本罪の犯罪構成要件は「凶器」をはじめ極めてあいまい不明確で多義的な概念を内容とするものである。

(1) その中心的なものは、いうまでもなく「凶器」である。立法の国会審議においても、ここに論点の一つが集中された。「凶器」は通常、性質上の凶器と用法上の凶器とに分けて論ぜられているが、問題は用法上の凶器である。用法上の凶器とは、本来の性質上は凶器ではないが用法によつては凶器としての効用をもつものをいうとされる(例えば、注釈刑法(5)、106頁)。この用法上の凶器が全て「凶器」に含まれるとするならば、それは前述のとおり、立法事実からしてその規制は広きに過ぎるといわねばならないが、そもそも用法上の凶器という概念は、抽象的、多義的できわめてあいまい不明確なものというほかはない。

志賀義男義員は「共産党員が持てばマッチ一本でも凶器となる」との木村篤太郎法務総裁の言をひいて「凶器」という文言のもつ危険性を指摘しているが、これに類したことは挙げれば本当にきりがないであろう。タオル、ハンカチですら用法の如何によつては人をたやすく殺すことも可能である。かがみ餅が殺人の所段として用いられることすら考えられよう(松本清張「凶器」画集所収)。野球のバットで人を殺した実例もある。石や棒も杖も然りである。集団示威に不可欠なプラカードも使用方法の如何によつて人を傷つけるに充分である。殺人はともかく傷害ということになれば、それこそ用法の如何によつては、ありとあらゆる物体の全てが「凶器」となりうることになるといつても決して過言ではあるまい。

(2) 凶器については、旧刑法時代の判例が参照されるべきものとして国会審議の中でも挙げられている。

例えば、旧刑法第三七〇条(持凶器窃盗)に関する大判明39.4.12(刑録12、443)、旧衆議院議員選挙法第九三条第一項「人ヲ殺傷スルニ足ルヘキ物件」に関する大判大14.5.26(刑集4・325)等である。後者は「其前段ニ例示シタル銃砲槍戟竹槍棍棒ト同視スヘキ程度ニ在ル用法上ノ凶暴ニシテ社会ノ通念ニ照ラシ人ノ視聴上直チニ危険ノ感ヲ抱カシムルニ足ルモノタルコトヲ要ス」

というものであり、「この見解は、刑法上の凶器について多くの共鳴を得ている」とされるが(前掲106〜107頁)、このような規定をもつてしても、裁判規範としての側面においてすら一義的に解釈される保障はない。行為規範の側面における一義的な明確の欠如は勿論である。

(3) 本件との関係で、用法上の凶器に関するプラカードに焦点をあててみよう。先づ東大教授団藤重光参考人は、「……で、凶器というのが、一体どの範囲のものをさすのか、これによつていろいろな問題が出てくると思うのでありますが、同じ一本の棒でありましても、その使い方によつては凶器になる、使い方によつては凶器とは考えられないということもあるので、この凶器というものを純粋に客観的に限界づけるということは、私の考えではかなり困難があるように思うのであります。ある程度その行為者の主観的なものを考えませんというと、凶器の限界がはつきり出てこないのじやないか、……同じ一つの物体でありましても、それをどういうふうに使う意図を持つているかということによつて、凶器になるという関係があると思うのであります。(33.4.15参院法務委員会)

と述べ、かかる同教授の見解は現在も維持されている(「凶器には性質上のものと用法上のものとがあるが、後者については具体的な事案において客観的および主観的要素をもとにして本条にあたるかどうかを判断する以外にない」団藤・刑法各論、法律学全集239頁)。

そして、検察官が論告で指摘する通り、東京地裁刑事第一六部40.11.26判決は、角材(棒)を「凶器」とし、その他木刀、竹刀や、鍬の柄までを凶器とする下級審の判例があることも事実である。

しかし、国会審議の段階では、プラカード等を本罪の凶器とすることについては政府当局をはじめおおむね否定的であつた。

竹内刑事局長(政府委員)は、

「そういうもの(注、通常の形における竹ざお、旗ざお)やプラカードの棒であるとか、そういうふうなものは凶器になろうはずがない。一見、社会通念上、危険の感を抱せるものではございませんので、そういうものは凶器に当らない、かように解釈をいたしております」(33.4.21参院法務委員会)

と断言している。

また小野清一郎参考人は、従来の判例にふれ

「……たとえば、一つの判例にはなたを持つて入つた場合、一つの判例は出刃ぼうちようとそれをとぐやすりとを持つて入つたという例、これはいずれも凶器であるとされております。ここまでは、性質上の凶器ではなくても、用法による凶器と言えることは、これらの判例の傾向を見ても明らかでありますが、こん棒とかプラカード、こういうものは私はこの凶器には入らないと思います。もつとも、特にたとえば日本刀の格好をしたこん棒というものもあるのでありますから、それはまた別でありますけれども、普通の野球のバットとかプラカードのたぐいは、これは用法上の凶器でもない、凶器であると解釈されるおそれはまずないと思つております」(33.4.8衆院法務委員会)

とその見解を述べている。植松正、戒能通孝、島田武夫、森長英三郎、神鳥日吉等の参考人も、それぞれの立場から、ニュアンスの相異はあるが、用法上の凶器を「凶器」とすることに疑問を呈し、旗竿、プラカード、ステッキ等につき権力の濫用をおそれているのである。

(4) これらの事実は、本罪の「凶器」の解釈にあたつて極めて重要な資料といわなければならない。しかし、本論で重要なことは、このような政府当局や学識者の立法当時の見解にもかかわらず、裁判規範の側面でもこれらに反する下級審判例が現われ、われわれが最も重視する警察・検察の公権力の判断基準としての側面では、これらと真向から反する見解・運用が公然と行なわれ集団示威運動等の自由を不当に侵害しているという事実である。

エンタープライズ阻止斗争に際しては、例えば、北折篤信原空港警備本部長は、警備本部を設置した直後の記者会見でも「プラカードは凶器とみなす」と言明し(東京新聞43―18)、政府当局もくりかえし同趣旨の見解を発表していることは公知の事実である。そして、現実の運用は、(一)問題の所在として述べた通りである。「凶器であると解釈されるおそれはまずない」との小野清一郎法務省特別顧問の期待は、現実には無残にも打ち砕かれているのである。この原因は何か。いうまでもなく、「凶器」という文言の多義的な不明確性に決定的に基づくものといわなければならない。「財産」等についても全く同様である。

それは、前述の法理からして憲法第三一条の問題であるが、同時に表現の自由、争議権を侵害する虞れをもつものというべきであるから憲法第二一条、第三一条の問題でもある。こうして、刑法第二〇八条の二の規定は、憲法の右諸規定に違反して違憲無効とされなければならない。

第二点 原判決には、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があり、破棄しなければ著るしく正義に反する。

一、原判決は

「被告人七名は、いずれも角棒を所持するに至つた時点において、それぞれ凶器を準備して集合したと認めざるを得ない」(原判決七丁裏)

と認定しているが、その反面、各被告人がいつ角棒を所持するに至つたかという点になると必ずしも明確でない。

「被告人七名を含め、本件現場に参集した都学連派学生の中にはプラカードを携行するものはあつたが、各自角棒を予め準備携行したものとは認められない」(原判決六丁裏)

「被告人らが本件現場に参集する以前、各自角棒を携行した事実は確認できない」(原判決六丁裏」

など認定し、各個人については、三戸部・田中・松本については乱斗直前に所持するに至つたと判断しているが、比嘉・小柴・古根村・須賀の四名については、乱斗の際所持していたことのみ認定し、いつどこで所持するに至つたかは詳かでない旨原判決自体が認めているところである(原判決七丁裏)。しかるに、前記の如き、証拠上認定できないところの「所持するに至つた時点」において刑法208―2の成立を認めることは、法令の適用のずさんとしか云いようのない重大な誤りである。

すなわち、右判決に従うと、比嘉・小柴・小根村・須賀については、角棒の所持は乱斗の際持つていたこと以外認定のしようがないのであるから、乱斗の際所持するに至つたとしても、兇器準備集合罪の成立を認めることになるのである。実行行為段階で兇器を所持していたとして、そのことから直ちに兇器準備集合罪の成立を認めるには、結局、実行行為の着手と準備行為の着手が同時に行われ得るという解釈、又は加害行為時まで兇器準備集合罪が継続しているという解釈を事実認定が行われてはじめて成り立つ論理である。

ところで、この論理が、原判決では加害行為と準備行為は別個独立の犯罪であり、両者は併合罪の関係になるという最高裁決定(昭三八・一〇・三一)の解釈から正当づけているのである。

しかし、右の原判決が引用した最高裁決定および継続犯の論理が直ちに本件に適用できない例であること――すなわち、構成要件的情況の消滅の理論は単に解釈の問題ではなく事実認定の問題でもある。原判決は、前記の如く認定した事実に誤つた判例および解釈を適用しているといわざるを得ないことである。

さらに、原判決で奇妙な点は、継続犯であるから、加害行為があつても兇器準備集合罪は存続かつ継続しているという論理と、加害行為段階まで準備罪は継続していると解しながら、七名の各被告について、いつから継続しているかについての認定をしていないことである。原判決は

「……乱斗が行われた際、各自角棒を携行して右都学連派学生の集団に参加し行動した事実は明らかである」

と認定し、前記のとおり被告人七名の各自が所持するに至つた時点は明らかにしないまま、少くとも、「所持するに至つた時点」で兇器準備集合罪は成立したとするのである。

さらに原判決が引用する最高裁決定は「兇器準備集合罪が成合した場合でも、それが発展して、その目的とした加害行為が実行の段階に至つた時は本罪と加害行為の罪とは併合罪となる」として兇器準備集合罪の成立を疑いのない前提とした上での解釈であるが、本件は右の兇器準備集合罪の成立の有無そのものを争つている事案である。

そうだとすると、原判決の判例の引用は適切でなく、結局「実行行為と準備行為が同時に存在(すでにある者が存続する)することがあり得る」との右最高裁決定の趣旨をさらに拡張して「実行行為と準備行為が同時に発生する」との解釈が可能にならない限り本件への適用は困難であると思われる。

さらに、一審判決の「構成要件的情況の消滅」の理論――実行行為に至つた時はその準備行為たる兇器準備行為は終了している――について、本件が継続犯であることを理由にして排斥しているが、刑法208―2で継続犯であるということと、継続状態の発展的消滅ということは明らかに異なる概念であるのに、原判決は、ただ継続犯であることと右最高裁の決定とを結びつけて一審判決の判断を排斥していることはまさしく不当なこじつけであり、法令の解釈・適用を誤つたものと云わざるを得ない。

二、右の解釈について、北海道大学教授小暮得雄氏の論文が次のように指摘する。

「本件のふくむ第一の問題点は、すでに指摘したごとく、激突の時点における構成要件的状況の消滅という論理である。判旨によれば、乱斗場面はまさに目的とされた加害行為の実行そのものであつて、加害目的をもつて集合した状態ではない。たとえ集合体として兇器準備集合罪の成立をみた場合でも、すすんで乱斗状態にいたつたときは、もはや同罪の前提する構成要件的情況は失われたことになる。したがつて角棒を携えて乱斗に加わつた事実は、ただちに同罪の成立と結びつかない、と。たしかに、乱斗状態における角棒の準備ないし加害目的の存在を結論しえないことは、判旨の説くとおりであろう。その間の結びつきは通常高度の蓋然性があるとしても、証拠調をつくした末、事実として確信の形成にいたらなかつた以上、その判断を尊重するほかない」(ジュリストNo.433・一二八ぺージ)

右論旨は、第一審の判旨を支援するようで結局「本件のように隣りあう集合が一触即発の危険をはらみながら長時間にわたつて継続し、その間、緊張が昂ずればおのずと激突におよび、といつた状況のもとにおいては、個々の乱闘場面を包摂しつつ、むしろ全体として、加害目的をともなう兇器準備集合の継続と認むる余地が十分に存するであろう」として、結局原判決に近い結論にみちびかれるのであるが、右論旨は判断の前提となる事実について証拠にもとづかない想定がある。もちろん、右論文の如き事実があつたとすれば、まさに兇器準備集合状態であつて、その間に行われる個々の実行行為は、兇器集合とは別個の独立の犯罪と評価され、両者は併合罪の関係に立つことになることは、適切な法解釈であろうと思われる。原判決のとおり、前記最高裁決定と継続犯であることが結びつき兇器準備集合罪の成立が認められることになろう。

三、しかし、右解釈を本件にただちに適用することがあやまりであることは、次の理由により明らかである。すなわち、

(一) 本件が午後三時五二分乱闘に至り、全連派の大部分は公園外に追い出された。都学連派はもとの集合場所に引き揚げ全学連も追い追いその一部が集り反撃の構えを見せた。ここで待機中の機動隊が同派間に割つて入り午後三時五五分頃検挙活動をした。(原判決四丁表)

右事実は、原判決が認定したとおりのものであるが、右の事実をみると、前記木暮論文の想定した前提事実と異ることはもちろん、前記最高裁決定が兇器準備集合罪と加害行為が別個独立に成立し、両者併合罪の関係になるとした事例とは明らかに異なるものである。すなわち、集合罪と加害行為が併存する情況は、ごく常識的な想定としては考えうるのであるが、少なくとも本件では、第一回の全体的乱闘情況において準備的情況――兇器準備集合罪の構成要件的情況――は消滅したと解釈することが正しい事実判断である。

さらに、第一回の衝突の直後、待機中の機動隊が介入していることも考え併わせると、介入後しかも機動隊を面前においての多少混乱は、兇器――実行行為という刑事的評価をする程度のものではなく、集会内の小ぜり合いと考える方が正しいものとの前提に立つても、その解釈を本件が適用することは、明らかに前提事実を誤認し、その結果法律の解釈・適用を誤つたものというべきである。

四、次に共同加害目的の有無について原判決は、

(一) 「両派学生間の一触即発の緊迫した客観的状況があつたこと」

(二) 「両派学生が集団として乱闘を行つたこと」

(三) 「被告人はいづれも角棒を所持して右乱闘中の都学連派学生の集団が加わり、共同して全学連派の学生を角棒で殴打し……兇器の用法に従つてこれを使用して攻撃的行動をした」(原判決八丁裏)

の三点の客観的状況および被告人らの行動を総合して角棒を所持するに至つた時点において同加害意思を認定しているが、共同加害目的の成立には、原判決も引用しているとおり(原判決九丁裏〜一〇丁表)角棒を所持するに至つた時点における共同加害目的ではなく、乱闘状態に入る前の段階において共同加害目的が必要である。原判決によると、角棒を所持するに至つた時点は不明確で結局乱闘時と同時点となることにより、兇器準備集合罪と加害行為とを混同することになる。

さらに、共同加害の目的につき、

「共同加害の目的という以上、加害行為が他人と共同して達成しようと意欲する対象でなければならない」(原判決九丁表)

との第一審判決の判旨は、適切な解釈である。そして、本件では右の加害目的が準備段階で確認できないことは原判決も直認するところである。さらに、実行行為の段階に至つても、はたして共謀以上の共同加害意思が、原判決の認定した前記(一)(二)(三)の情況から推認しうるか否か疑問である。

五、以上のとおり、原判決は兇器準備集合罪の規定の解釈を誤り、その結果法令の適用を誤つたもので、その誤りは判決に影響を及ぼすことは明らかであり破棄しなければ著るしく正義に反するものである。

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